宅地崩壊が起きると、しばしば、天災か人災かが議論になります。しかし、宅地崩壊は、盛土や切土によって人工的に作り出されたニュータウンや土石流襲来地の真ん中に建設された新たな集落で起きることが多いものです。なので、冷静に考えれば、そもそも宅地崩壊が100%の自然現象、つまり天災ということは普通ありえません。これについては、小出博さんも同様なことを述べています。すまわち、本家も巻き込まれる様な地域全体の災害は天災と言えるが、一部の特定の場所の住民たちが被災する分家災害は人災に違いないというわけです。
天災を主張する人たち
それでは、なぜ天災か人災かの対立がいつも沸き起こるのでしょうか? 実は、天災か人災かの意見対立は、災害の原因究明という科学的技術的な問題と災害の責任論をごっちゃにしている、というのが筆者の見方です。つまり、天災と主張する人の本音は、「(天災なんだから)誰も責任を取らないようにしたい」であり、人災と主張する人の気持ちは、「(補償問題とからめて)責任のありかを明確にしたい」という事だと思います。しかし、災害の本質を見極めて今後の防災に生かすという立場から見ると、もっとも大事なことは、災害の原因を徹底的に調査し究明することだと言えます。本来は、そうした原因の究明と責任問題は切り離して議論されるべきなのですが、多くの人はついついその先まで考えてしまうので、二項対立のような議論が始まるのではないでしょうか。実際、過去の災害を見ると、結論を天災説に誘導したいがため、第三者の調査を規制したとか、調査委員会に紐をつけたといった、真相の究明を妨げる、悪い影響が起きています。事実を隠蔽し将来の防災・減災を妨害しているという点で、「何が何でも天災」という説を唱える人々の方が、罪が重いと言えるかも知れません。