最初の犠牲者たち

どんなことにも始まりというのはあります。公式に記録されている谷埋め盛土地すべりによる最初の犠牲者は、1968年(昭和43年)5月16日の十勝沖地震(M7.9)によるものです。この地震の揺れは、最大でも震度5強程度でした。しかも、揺れたのは人口密度の低い地方であったのですが、50人あまりが犠牲になりました。青森県の太平洋沿岸部を中心に土砂災害が多発したからです。土砂災害の大部分は浅い斜面崩壊によるもので、青森県八戸市から二戸市にかけての段丘・丘陵地の火山灰で覆われた斜面で発生しました。約13,000年前に十和田火山から噴出した、八戸火山灰を境にして滑った場合が多かったと記録されています。また、地震の前に大雨があり、斜面がたっぷり水を含んでいたことも不運でした。同じような災害は、半世紀後、2016年熊本地震の際の阿蘇地方や2018年胆振地震の際の厚真町でも繰り返されました。

崩れ落ちた中学校

 この地震により、南部町(旧名川町)剣吉中学校(現在は廃校)では、谷埋め盛土地すべりが発生しました。しかも、生徒4名が亡くなっています。地震後、生徒たちは校庭に避難しようとしました。しかし、途中、校舎の玄関を出たところで足元が崩れ落ちたそうです。つまり、校庭全体が地すべりで崩壊し、彼らは、級友と共に流動化した土砂に巻き込まれたのです。彼らは、谷埋め盛土地すべりによる最初の犠牲者になりました。

盛土の崩壊

 中学校の谷埋め盛土は、切り取られ平坦化された尾根の地層で作られました。それらは、西方の十和田火山から噴出した火砕流や火山灰です。こうした材料は、土の粒子そのものが軽く、締固めがうまくいかない性質があります。そのため、中学校の谷埋め盛土の密度は小さく(品質が悪く)、透水性が良いため、地下水を含みやすかったと考えられます。つまり、液状化が起こりやすい状態であったわけです。恐らく、地震の揺れにより、たっぷりと地下水を含んだ盛土が液状化し、全体が地すべり的に崩れ落ちたと推定されます。盛土の崩壊が、地震の主要動よりも少し後だった、そのため避難する余裕があったことは、この推定を裏付けています。この地震では、同じような液状化による谷埋め盛土地すべりが、対岸の北海道の札幌市でも起きていました。その清田区では、その後の地震でも繰り返し、宅地崩壊が繰り返されることになります。後年、谷埋め盛土が公害化する兆しは、既にこの時に見えていたと言えるのです。

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