遅れた来た公害

1950年代の後半から、大都市の宅地開発は、都心から郊外に向かって始まりました。開発の舞台は、起伏のある丘や台地の地域です。なので、当初は、丘や台地の斜面を薄く造成して雛壇を作るという小規模なものでした。しかし、1960年代に入り大型機械を使えるようになると、丘の尾根をブルドーザーで削り、その土砂で谷を埋めるという派手で大胆な造成が行われるようになりました。東京や横浜、大阪、名古屋などの大都市では、1960年代中頃からそうした谷埋めを伴う開発が主流になったようです。実は当時から、何人もの地質学者や地形学者が、そうした宅地開発で地すべりが発生する危険性を指摘していました。しかし、当時はいざなぎ景気から列島改造ブームへ続く経済成長の真っ最中です。彼らの声は、どことなく騒がしい世相の中でかき消され、人々に届くことはありませんでした。その当時は、大きな地震で都市が被害を受けることも無く、大都市で起きる斜面災害と言えば、小規模な崖崩れだけだったからです。

谷埋め盛土の出現

しかし、1970年代半ば以降、山の手の宅地造成地で奇妙な地震被害が出現するようになります。まだら模様の被害分布が特徴的な、不思議な宅地被害です。住民もなぜ自分の家が壊れて、隣が無傷なのか理解できないといった具合です。調査してみると、被害を受けた住宅の多くが、造成時に谷筋を埋め立てた「谷埋め盛土」の上にあることが分かってきました。被害は谷埋め盛土が地すべりして引き起こされたものだったのです。ただ、当初は単純に揺れが大きかっただけで、地すべりで地盤が壊れたわけでは無いという見解や、盛土の被害は特定の地域に限られ全国的なものではないといった意見もあました。こうした意見は、土木・建築系の研究者に根強かったと記憶しています。そういうわけで、当時は百家争鳴の状態で、なかなか結論は出にくかったのです。しかし、何回かの地震を経験するうちに、こうした被害の多くは地すべりによるもので、わが国の都市ではどこでも起きる可能性のあることが一般にも理解される様になりました。

公害の時代

谷埋め盛土が数多く作られた高度経済成長期は、公害の時代でした。1970年には、「公害と東京都」(東京都公害研究所)という、今から思えば優れた啓蒙書であり告発本が刊行されました。自治体の出版物としては異例の売れ行きを記録し、当時、中学生だった私は、宿題のネタにしようと都庁まで買いに行ったことを覚えています。

この時期、工場や車の煤煙や排水によって、空気や水が汚染され、四大公害病といわれる深刻な社会問題が発生していました。そのため、政府は、公害対策を相次いで打ち出し、1971年(昭和46年)には環境庁が発足しました。初代長官は、医師で東北大助教授でもあった大石武一です。大石長官は、当時の田中角栄通産大臣らの反対を押し切り、尾瀬の道路建設をストップさせ、水俣病の患者救済の道を拡げるなど、大胆な環境行政を展開したことで知られています。1970年代は時代の潮目が変化し、環境保護が時代の主流となった時期だったと言えます。法的な監視体制も整備され、加害者の故意・過失を問わず法的責任を追及できる「無過失責任」を規定するなど、事業者に厳しい方針がとられました。こうした努力の結果、現在では、空気や水の汚染問題はほぼ解消し、地上の公害はほぼ克服されるに至ったのです。

遅れて来た公害

しかし、地上の公害問題に対策が取られる一方で、地下の谷埋め盛土は放置されたままでした。それどころかどんどん増える一方だったのです。しかし、戦後30年ほど大きな地震が無かった事もあり、それらが後にどんな深刻な被害を出すことになるか、一般の人々には想像もできない事でした。地上の公害と同じ時期に、しかも谷埋めという環境破壊を伴って準備されたという意味で、谷埋め盛土地すべりは、“遅れてきた公害”という見方がぴったりの様に思います。そして、遅れては来たけれど、水や空気の汚染問題と同じく、問題を起こした事業者(企業、自治体、特殊法人)が存在する点も公害と呼ぶべき理由の一つです。

PAGE TOP