和田庄五郎事件

江戸の街でも崖崩れは起こったはずですが、その具体的な状況は、今では容易にうかがい知れません。100万人もの人々が暮らしていた江戸ですが、町人の居住区は限られていました。武蔵野台地の東の縁に相当する神田や湯島、赤坂、麻布などでは、崖下の住宅も多かったはずです。しかし、江戸における崖崩れの記録を調べてみても、場所を特定できるような記録は稀です。江戸市中において、崖崩れで死者が出るような事態は、かなり珍しい事件だったのかも知れません。そう思わせる記述を有名な『藤岡屋日記』に見つけました。『藤岡屋日記』は、文化元年(1804年)から65年間にわたって、江戸で起きたことを細かく記録し続けた、いわば情報のアーカイブスです。著者の藤岡屋(須藤)吉蔵は、当時から「お記録本屋」として知られた人物で、現代の通信社の様な役目を担っていました。

さて、この日記の文化12年(1815年)の冊子[1]には、その年の冬、薬研坂(現在の港区赤坂4丁目と7丁目の境界の坂)に住む和田庄五郎という御家人が、自宅裏山の崖崩れで土に埋まり、圧死したというニュースが記録されています。興味深いのは、この和田庄五郎は、自宅の庭先にある台地の崖から土を掘りだし、売っていたという点です。ある日、いつもの様に崖下を掘り進んでいたところ、突然崖が崩れて埋まってしまったというわけです。家人もそれに全く気付かず、しばらくして土を取り除いて彼を発見し、驚いたという事、しばらくの間、江戸の街で評判になった事を日記は伝えています。

当時、御家人は、俸禄だけでは生活できないため、何らかの副業を持つのが一般的でした。例えば、麻布・六本木周辺の貧乏御家人の副業は金魚の養殖で、谷筋には、湧水を利用した養殖池がいくつも点在していました。明治以降、それらは、埋め立てられて、住宅地になりました。赤坂の和田庄五郎の場合は、土砂採取・販売業だったのです。そして、もっと金を得たいという人間(彼)の欲が、過度の人工地形改変(切土)につながり、自らが犠牲者になったわけです。この点は、現代の災害に通じるものがあります。ただし、日記の65年間を通じて、犠牲者を伴った崖崩れの記事はこれ一つしかありません。やはり、江戸市中では、宅地の斜面災害は稀な現象であったと思えるのです。


[1]第一巻 文化十三年