2011年の東日本大震災では、東京電力福島第一原発の事故が有名ですが、東北電力の女川原子力発電所も高さ13mの津波に襲われました。同時に地盤も約1m沈下したので、津波の波高は14mに相当し、東京電力・福島第一原発と同様の原発事故が発生しても不思議では無かったはずです。しかし、女川原発が無事だったのは、ひとえに標高15mの高台に位置していたからです。わずか1mの差が明暗を分けたことになりました。
高台に位置する原発は、冷却水のポンプを整備しなければならず、経営的には不利になります。しかし、東北電力の副社長(技術系)だった平井弥之助は、「貞観大津波は岩沼の千貫神社まで来た」として社内の反対を押し切り、地盤の固い牡鹿半島の高台に女川原発を設置させました。当時の技術基準では、そうした巨大地震を想定しておらず、津波もせいぜい10m以下とされていたにも関わらず、でした。一方、東京電力は、国が定めた「技術基準」と土木学会での「検討」を盾に企業としての努力を怠り、国土の一部を事実上失わせるという、国難を招きました。「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」が、平井の信条だったと伝えられています。一方、東京電力の旧経営陣は、事故後の裁判においても「想定外」を主張することに必死になっています。同じ業界とは言え、両者の思想信条と美学は対極にある様に見えます。
平井弥之助は、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東邦電力に就職しました。「電力の鬼」と呼ばれ、官僚統制が大嫌いだった松永安左エ門の会社です。松永安左エ門は、経世済民の男とも呼ばれます。松永の薫陶を受けた平井弥之助の判断の先にも、官からは独立して「民を濟(すく)おうとする」技術者倫理があったのかも知れません。
かくして、2011年の大災害は、デシジョンメーカーや専門家と呼ばれる人々の立ち位置をはっきりとあぶり出すことになりました。この時、仙台市を中心とする都市域で起きた宅地崩壊も、戦後の宅地開発の在り方とともに、それを実行した行政、企業、大学の専門家たちを告発していたのです。恐らく、将来の首都直下地震等では、都市計画、土木、建築などの専門家とともに、われわれ斜面の専門家の見識も問われる事になるでしょう。宅地崩壊を防ぐために、各人がそれぞれの立場でどの様な努力をしたのか、あるいは、しなかったのか、歴史の審判を仰ぎたいと思います。
宅地だけでなく、専門家もまた崖っぷちにいるのです。